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「京焼・清水焼とは」

江戸時代、京都市内には粟田口焼、八坂焼、音羽焼、御室焼、御菩薩池焼、修学院焼、そして清水寺参道あたりで焼かれていた清水焼とあり、それら京都の焼物の総称を京焼と呼んでいました。 現在では、東山一帯・山科・宇治などで生産されるものを京焼・清水焼と呼んでおります。 経済産業大臣指定伝統工芸品及び京都府知事指定伝統的工芸品の指定でも「京焼・清水焼」と呼ばれています。

「京焼・清水焼の歴史」

京焼の歴史として、1605 年博多の豪商・神屋宗湛の「宗湛日記」の中に“ 肩衝京ヤキ ”として初めて登場し、1635 年には金閣寺住職・鳳林承章の「隔蓂記」の中では京焼・粟田口焼・八坂焼・御菩薩焼と多数のやき場が登場します。

京焼を語る上でまず欠かせない人物として野々村仁清・尾形乾山があげられます。京焼随一の名工と評される野々村仁清(生没年不詳)。色絵技術の素晴らしさから現在の日本の国宝・重要文化財に指定されている京焼の多数が、仁清の色絵磁器で占めている事や、当時においても徳川将軍家に献上されていた事から、過去から現在に至るまで高い評価を受けていたことが伺えます。

仁清に並ぶ京焼の名工といえば尾形乾山(1663 ~ 1743 年)で、実兄は絵師の尾形光琳(1658 ~ 1716 年)です。乾山焼の特徴として、それまで京焼になかった大胆な絵付けや文字を添える斬新な方法が人気を博す形となり、その大胆さの中に仁清以前の京焼の繊細な技術があったからこそ、より作品が生きる形となりました。

仁清・乾山を第一次京焼黄金期とすれば第二期は初代清水六兵衞 (1738 ~ 1799 年)・初代高橋道八(1749 ~ 1804 年)・奥田頴川(1753 ~ 1812 年)が挙げられます。初代六兵衞は摂津の農家の生まれでしたが、1771 年に京都五条坂にて開窯しました。1789 年刊行された「煎茶略説」の中で、涼炉・急須が高い評価を受けています。初代高橋道八は伊勢亀山藩士でしたが、出奔後上京し煎茶器の作陶を粟田口で行い、高い評価を得ました。奥田頴川は京焼で本格的な磁器生産を初めて成功させました。また、門下の中から青木木米(1767 ~ 1827 年)や二代高橋道八(1783 ~ 1855 年)など多数の名工を輩出した功績もあります。

幕末から明治維新にかけ東京遷都と大きな社会の変化に伴い、茶陶の需要が激減し、廃業を余儀なくされた者も多数いました。しかし、明治に入り、京焼の陶家たちは生き残りを賭け、京薩摩と呼ばれる豪華絢爛な金襴手の色絵磁器を制作したり、欧米における日本趣味(ジャポニスム)大流行により海外への輸出を増大させ、現在の地位を占めるに至りました。

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